池田:「環境」と聞いてぱっと浮かぶのは、木々が茂る山や大地を流れる河川といった自然環境ではないでしょうか。一方、私たちが研究対象としているのはもっと身近な息をすれば吸ってしまう空気や、日々手に触れたり、口にしたりする生活の「環境」です。

池田(荒木)敦子 教授

池田敦子先生は、日本で初めての出生コーホート研究「環境と子どもの健康に関する北海道研究(略称:北海道スタディ)」のメンバーである。コーホート研究とは、疾病とその要因との関連を長期間に渡って探る調査手法で、大規模な出生コーホートだと、何万人もの人たちを対象に、産まれる前のお腹の中にいるときから、成人するまでの約20年以上かけて追跡調査することもある。私たちは多種多様な化学物質に囲まれた生活をしていますが、それらが長期に渡って健康にどのようにどれくらい影響しているかお話を聞きました。

生活環境と健康の関係を明らかにする

私たちは生活の中でどのくらい化学物質に触れているのでしょうか?

池田:例えば、成人男性であれば空気を一日に15kg、固形食品を750g、水分を1.5kgくらい体の中に取り込んでいます。これだけ摂取していると、その中にもし有害なものが含まれていれば、それは当然健康に影響してくるわけです。例えば、部屋の内装材として使われている製品の中には、プラスチック可塑剤という化学物質が添加されており、この中にはホルモンを撹乱してしまうものがあると報告さています。私たちはそれら化学物質を、ほこりといっしょに吸い込んでいることが、すでにわかっています。

健康は日々の食事・運動・睡眠だけでなく、生活環境からも影響を受けているのですね

池田:近年、胎児期から3歳くらいまでの環境が、その後の疾病に影響してくる、という概念が考えられています。私たちの研究も、それが本当かどうか、本当だとすればどれほどの影響があるのかを、明らかにしようとしています。
身近な事例を紹介すると、有機フッ素化合物という化学物質があり、例えば防水スプレー、紙や布などのコーティングにも含まれている物質の一つです。この化学物質は、妊娠中のお母さんの血中に含まれている濃度が高い場合、産まれた子は7歳までのアレルギーになるリスクが下がっていることがわかりました。

アレルギーのリスクが下がるのであれば、良い影響ではないのですか?

そう思いますよね。一方で、感染症にかかるリスクが少し増えてしまうんです。アレルギーは、免疫機能の過剰反応によって起こるものですから、この化学物質が免疫機能を弱めてしまっている可能性があります。人が本来保っている免疫のバランスを、この化学物質が崩してしまっているとしたら、それは見過ごせません。

妊娠中の母体血中の有機フッ素化合物の濃度と、その子が7歳になったときまでのアレルギーや感染症との関係を表したグラフ。横軸が妊娠中の母体血中の有機フッ素化合物の濃度を4つに分け、右にいくほど濃度が高い。縦軸は、左図はアレルギーのリスク、右図は感染症のリスクを、それぞれ示している。(A it Bamai et al., Environ Int 2020より)

妊娠中の母体血中の有機フッ素化合物の濃度と、その子が7歳になったときまでのアレルギーや感染症との関係を表したグラフ。横軸が妊娠中の母体血中の有機フッ素化合物の濃度を4つに分け、右にいくほど濃度が高い。縦軸は、左図はアレルギーのリスク、右図は感染症のリスクを、それぞれ示している。(A it Bamai et al., Environ Int 2020より)

一口に健康への影響と言っても、さまざまな面を見ていく必要があるのですね

池田:ある一面だけを見て、健康に良い・悪いと一概に言えるものではありません。また、身近な環境といっても、化学物質の他に室内の換気状況といった物理的要因も関係しますし、経済的要因、何を食べてどういった活動をしているかといったライフスタイル、人間関係のストレスなど、さまざまな要因が複雑に関係しています。

胎児期や幼少時の環境が、その後の疾病や健康状態に及ぼす影響を調べるのが、池田先生の研究

胎児期や幼少時の環境が、その後の疾病や健康状態に及ぼす影響を調べるのが、池田先生の研究

北海道スタディは未来の研究者につなぐ財産

北海道スタディが行う大規模な出生コーホート研究について教えてください

池田:先ほどの事例でいうと、7歳のお子さんがアレルギーになったときに、その原因を調べようと思っても遅いわけです。タイムマシーンでもなければ、過去にさかのぼって調べることはできない。これを解決するのが、私たちが行っている「出生コーホート」と呼ばれる調査手法による研究です。
この研究では、お子さんが産まれる前、胎児の時から、妊娠しているお母さんにご協力いただいています。お母さんの血液やへその緒の血液をいただき、出産後はお子さんを追跡して定期的な質問票調査に加えて健診、採血、採尿をさせていただいています。健康な方から血液をいただくのはハードルが高いことではありますが、幸い多くの方が調査の重要性を理解し、協力してくださっています。
こうして、疾病になる前からあらかじめデータや生体試料を蓄積しておくことで、例えば7歳でアレルギーになった子と、アレルギーにならない子の間で比較し、どのような化学物質の影響を受けているのかなどを調べることができます。

事前に集めておいたデータから、原因を突き止めていくのですね。調査しているお子さんの人数はどれくらいなのでしょうか?

池田:北海道スタディは2001 年に開始し、札幌で行っている研究と、北海道全域で行っている研究の二つがあります。札幌の方では500名ほど、北海道全域の方は2万名ほどの妊婦さんにご協力いただき、今もそのお子さんの調査を続けています。

調査に協力いただいているお子さんの、診察の様子

かなりの規模で、時間をかけて蓄積したデータは、膨大なものになりますね

池田:先ほど述べた化学物質の他にも、例えば暖房の排気が不十分だと喘息のリスクを上げることや、やせすぎのお母さんからは赤ちゃんが小さく産まれることなどがわかってきています。健康のリスク要因を明らかにするための鍵が、これまでに集めた膨大なデータとして蓄積されているわけですから、このデータは北海道大学の財産とも呼べるものです。この財産はこれからも増え続け、私の研究者人生のうちにできることは限られています。ですから、これから大学生、研究者になる若い世代にこの貴重な研究にかかわっていただき、多くの知見を探求して課題解決に活かしてほしいと願っています。

今後研究を続けることで、さらにどのようなことがわかってくるのでしょうか?

池田:現在論文として発表できているのは、7歳くらいまでのお子さんに関するデータです。これまでにわかってきた幼少期まで影響ですが、お子さんがもっと成長したらどうなるのかは、まだ明らかにできていないことがたくさんあります。成長するにつれて、その影響が徐々に弱まっていくのか、持続していくのか。新たに生じる影響は何か。引き続きお子さんの追跡調査を続けていく必要があると考えています。
いま、調査で追跡しているお子さんのうち、一番大きい方は高校生になっています。高校生になり、二次性徴(思春期にあらわれる男女の身体的特徴)を経験し、ゆくゆくは成人となると高血圧などのいわゆる生活習慣病になり始める年代になります。これらの影響についても、より広く見ていくつもりです。

明らかになった知見によって、健康によい環境づくりができますね

池田:はい、得られた知見を市民に伝え、日々の生活に役立ててもらうことが非常に重要ですし、力を入れて取り組まなければならないと考えています。ただし、私たちは、これは体に悪いから全て廃止しようといった、センセーショナルなことをいうつもりはありません。例えばポータブルなストーブは屋外排気口がないので健康へのリスクはありますが、一方で電気が無くても使えるため、停電のときに役立ちます。必要なときには使い、不要なときには使わない。身の回りの環境を、健康に関係するものとして自分事に考えながら、選択していくことが大切だと思っています。

ひとつの目標は複数の目標とつながっている

先生の研究はSDGsの3番の「すべての人に健康と福祉を」につながりますね

池田:私たちの研究は、SDGsの目標ではやはり3番「すべての人に健康と福祉を」に直結しますが、それだけではなく、例えば化学物質を含む製品を「つくる責任・つかう責任」がありますから12番も関係してきます。
身近なプラスチック由来の化学物質には健康に影響するものが知られており、これには生活水準も関係していて、安価なプラスチック製品に依存せざる負えない生活も背景にあります。このように、健康に影響する因子ひとつとっても、住む国や地域の生活水準、教育格差、経済格差、さらにそれらの背景には男女不平等など、起因する要素を掘り下げていくときりがないほどです。
これは何を意味しているかというと、「すべての人に健康と福祉を」をひとつ実現するにも、複雑に絡み合った他の目標を並行して取り組み、改善しようというSDGsのムーブメントなしには考えられないということです。持続可能な開発による、健全な環境なくして、私たちの健康は達成できません。

そう考えると、海や陸といった地球規模の環境と、私たちの健康に関係する身の回りの環境はつながっていますね

池田:プラスチック削減と共に廃棄物を減らせることができれば、14番「海の豊かさを守ろう」と15番「陸の豊かさも守ろう」に寄与することになります。さらに、都市の健康にも副次的に関係し、11番「住み続けられるまちづくり」も、廃棄物の燃焼が減れば13番「気候変動に具体的な対策を」にも関係してきます。このように、SDGsの17の目標の内の一つに取り組むことは、関連する他の目標の解決にも発展していきます。
SDGsの目標の関連性

ネットワークを広げて、研究成果を社会に役立てていく

複雑につながっている課題群ですが、解決のためには何が必要だとお考えですか?

池田:解決するには、17番の「パートナーシップで目標を達成しよう」が鍵になると思います。私たちの研究は分野横断的で、医学や保健、薬学、獣医学の先生に加え、騒音や建築といった工学の先生、発達心理と言った教育学の先生にもご協力いただいています。さらにこれからは、遺伝子などの生体のビッグデータを解析していきますから情報科学も重要になります。さまざまな分野の先生たちに参画してもらい、より多面的に研究することで、コーホート研究をますます豊かなものにしていきたいと考えています。

一見「環境と健康」には関係ない、教育学や工学の分野がつながっているのですね

池田:一つのことを研究するための入り口は、本当にたくさんあります。私も学部生の頃は遺伝子工学を専攻していました。遺伝子工学は、その名の通り遺伝子というミクロなものを見ていくわけですが、それに比べて今取り組んでいるコーホート研究は、人々とその周りの環境というマクロなものを見る研究です。遺伝子工学の知識が直接役立っているわけではないですが、ミクロとマクロの両方の視点を持っているのは、自分の強みだと思っています。

物事を多面的にみる重要さが改めてわかりました

池田:その点、北海道大学は総合大学で、さまざまな分野の先生が一つのキャンパスに集まっていますし、蓄積された研究成果も多く、この研究環境を活かさない手はありません。SDGsに大きな関心を寄せている先生も多く、共同研究してくださる先生を探して声をかけていくつもりです。

目指すは、地球にも健康にも良い環境づくりですね

池田:そのためには、リスクを明らかにしておしまいにしてはいけないと思っています。どうしたらそのリスクを予防・低減できるのか一歩踏み込んで考えていく必要があります。例えば、地域の保健センターや看護現場でも研究から得られた知見を活かせるように、保健師さんや看護師さんと情報共有をしていきたいと考えています。課題解決への実装までを見据えた視点をもってネットワークを構築していくことも、今後やらなければいけないと思っています。

 

一つの問題を多面的に明らかにする研究者のネットワークと、そこで得られた知見を社会に還元するためのネットワークの両方が重要なのですね。環境と健康という一つのテーマであっても、多面的な視点で取り組み、課題解決に向かっていくことが大切だと感じました。池田先生、ありがとうございました。

 

[企画・制作]
北海道大学 URAステーション/SDGs事業推進本部(企画)
株式会社スペースタイム 中村 景子(ディレクター・編集・ライティング) 細谷 享平(ライティング)
PRAG 中村 健太(写真撮影 ※池田先生近影)

プロフィール写真

池田(荒木) 敦子 教授

所属:北海道大学大学院 保健科学研究院 環境健康科学研究教育センター兼務

WHO Collaborating Centre for Environmental Health and Prevention of Chemical Hazards
健康科学、環境疫学、衛生学
高校生のときの夢は看護師。大学で遺伝子工学を学び、製薬会社で創薬研究に従事。その後ヒトを対象とした疫学研究に取り組みたいと考え、大学院に。「環境と健康」、特に環境化学物質と健康の研究を始めた。