石原:自己責任論が優勢な日本社会で〈痛み〉や〈弱さ〉は忌避されがちですが、〈痛み〉や〈弱さ〉は、きっと誰もが持つものですし、それらに注目することで、新しい未来が拓かれるかもしれません。皆さんと一緒に考えていきたいです。

石原 真衣 准教授

石原 真衣 准教授(写真:前沢卓)

日本社会はたくさんの人びとが「沈黙する社会」かもしれない。アイヌ民族をはじめとする民族・人種的マイノリティのみならず、福島や水俣といったさまざまな場所で多様な当事者が沈黙する状況について、文化人類学的な研究を掘り下げてきた石原真衣先生。最近では、女性の経験にも注目し、とりわけマイノリティ・様々な当事者性をもつ女性たちが抱える「生きづらさ」を通して初めて見えてくる日本社会の構造を描き出そうとしています。

沈黙を抱える人たちから探る日本社会の「生きづらさ」

石原先生を知るための初期のキーワード「サイレントアイヌ」の解説からお願いします。

石原:私が研究の射程に入れてきたのは、出自や属性について沈黙する、または自身を取り巻く状況や環境について語る言葉を持たないといった状況を抱えている人たちです。研究の初期では、私自身の経験を元に「沈黙する」ことについて研究を広げていきました。そこでは「サイレントアイヌ」という言葉をキーワードにしました。「サイレントアイヌ」とは、アイヌの出自について沈黙する人びとを指しています。

現在はいろいろな沈黙を抱えている当事者たちと繋がり、それぞれの沈黙の中にどのような「生きづらさ」が潜んでいるのかを考える研究へと発展しています。
近年はダイバーシティ(多様性)という言葉が広がり、皆さんの耳にも届いているかと思います。その実態はまだまだ不透明で、ダイバーシティという言葉を使う側も手探り状態なのではないかという印象です。

そうした現状を踏まえて、マイノリティや、様々な当事者の視点から初めて見えてくる日本社会の構造を照らし出していきたいと考えています。

「日本社会の構造を照らし出す」とは、非常に大きなテーマですね。

石原:日本の歴史を振り返ると、江戸時代に長く鎖国をしていた日本は開国を機に急激な西洋化に傾き、二度の世界大戦で勝つ・負けるの両方を経験し、しかも二度目には原爆投下という大きな傷を受けました。
その後アメリカの占領・庇護のもと、世界でも類を見ないような右肩上がりの経済発展を遂げ、その過程で自分たちがどんな国だったのか、どういう社会だったのかを腰を据えて考える間もなく走り続けて、今日に至っています。
その日本社会で今、こんなにも多様な「生きづらさ」を抱えている人たちがとても多くいるのはなぜなのか。どういう構造がそうさせているのか。非常に大きなテーマですが、さまざまな当事者たちと一緒に考えていこうとしています。

文化人類学の研究手法というと、研究者が調査対象とするフィールドに一定期間密着して、人々の行動や生活を調査・記録する「エスノグラフィー」が知られています。石原先生の場合、著著『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー) サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』(以下『沈黙』)にもあるように「オートエスノグラフィー」という手法を使っています。

石原:日本で書籍のタイトルに「オートエスノグラフィー」という表記が盛り込まれたのは、この本が初めてです。
オートエスノグラフィーとは著者の自伝的な要素をベースとしたエスノグラフィーという意味です。私の研究がさらに一般的なエスノグラフィーと異なる点は、並行して複数のフィールドを対象にしているところでしょう。属性や当事者性、地域も多岐にわたります。著書の中では、民族・人種的なマイノリティ当事者のみならず、多数派としての当事者、海外の先住民、セクシャリティにおけるマイノリティ、など様々な人たちについても記述しています。

一見バラバラの問題に向き合っているようですが、私の中には通底するものがあり、当事者間でも問題の枠組みを越えた横のつながりが広がっています。別の沈黙を抱えている人たちと出会うことで私を含めた皆が変わっていき、その変化の輪が広がっていく。
図らずも自分の研究が、地域だけに縛られず概念や時空間で問題点を切り取っていく新しいエスノグラフィーの提案にもなっているように感じています。

 

責任を個人に押しつけず、社会全体で引き受ける

次の研究キーワードは〈痛み〉です。何かに傷つき、それが〈痛み〉や〈弱さ〉となって心の中に沈んでいく。こうしたキーワードも研究・教育のテーマになるんですね。

石原:当事者性を持つ人たちが〈痛み〉を抱えているというのは皆さん、理解しやすいと思います。その一方で〈痛み〉を持っていない人がはたしているのか、という問いかけも非常に現代的な課題です。
今の日本社会では何か困ったことに遭遇しても「それは自己責任なのでは?」と決めつけられ、社会に対して弱みを見せてはいけないような傾向が強いように感じます。しかし、人間はそもそも〈痛み〉や〈弱さ〉、専門用語では「ヴァルネラビリティー(脆弱性)」と言いますが、それらがあるから繋がり、文化を作ってきました。

 

そのことが忘れられていく現代社会で、学生たちにこういう話をすると、中には「そういえば自分はこんなことがつらい」とか「本当はあのことが苦しかった」という気づきを得る人も出てきます。
特に女性は抑圧されていることにも気づかないまま、「生きづらさ」を引きずっている人が少なくありません。私の講義がそれぞれの人の固有の〈痛み〉に気がつき、なにが癒しをもたらすのかについて考えるきっかけになればという思いです。

もしかすると「そういう話題はちょっと苦手だな」と感じる学生もいるかもしれません。

石原:〈痛み〉への気づきは、たしかにしかるべきタイミングが大切です。だからこそ、教員も学生も、大人も子どもも、〈痛み〉を排除しすぎたり、悪いものとしてのみ捉えるのではなく、お互いの〈痛み〉を受け入れ合うような土壌を作っていきたいです。そして、その〈痛み〉の背景について考えるために「誰が悪い」とかの犯人探しをすることが重要ではないと思っています。どの立場の人も皆がハッピーであるために、誰かだけにしわ寄せがいってしまう、誰かが不当な扱いを受けているような社会は改善したいよね、というのがベースの考え方です。

責任を個人に押しつけるのではなく、社会全体で引き受けて、何が問題なのかを仕組みから考えていく。そうすることで日本の悪名高いジェンダーバランスの低さや少子化、未婚率などの課題が改善され、日本社会の発展にも寄与できると考えています。

実際、授業を受けた女子学生が「ジェンダーに関する勉強をして、結婚制度にすごく問題があることはわかりました。でも自分は結婚したいし、子供も産みたいです」と伝えてくれたことがありました。
この「私はこうしたい」という個人の欲望を表明することも、実はとても大事なことなんです。社会問題について議論や思考をする際に、その制度に問題があるからといって、ただちに禁止するような振る舞いは、かえって事態を悪化させてしまうかもしれません。一人ひとりの欲望と、社会制度のあいだにどのような齟齬があるのか、そしてその改善にはどのような方法があるのかといった視点が大切かもしれません。
自分が、今日も明日も一年後も居心地良く、ご機嫌に過ごすためには周囲の人たちとどんなことを共有していけばいいか。どんな社会を作っていけばいいのか。マイノリティもマジョリティも、女性も男性も、そして様々な当事者も、身近なところから考える糸口を作る。そこが大学でこの分野を研究・教育する意義だと思います。

私がアメリカ留学から日本に帰ってきたときに真っ先に感じたのは、「不機嫌な女性が多いなあ」ということでした。それも1人や2人じゃない。妻として、母として、成人女性としてあるべき姿が固定されている女性たちはなぜ、こんなにも抑圧されているのか。
時間がかかるかもしれませんが、向き合う時が来ていると思います。

 

学際的・国際的な先住民研究ができる北海道大学で

北海道大学はアイヌ・先住民研究センターや先住民・文化的多様性研究グローバルステーション(GSI)といった先住民研究の関連施設が充実しています。

石原:私が所属する先住民・文化的多様性研究グローバルステーションでは常に諸外国の研究者も交えたプロジェクトが進行しており、学際的・国際的な研究環境は日本屈指のレベルです。
思えば、先住民研究ほど学際的な分野はなく、文化人類学はもちろんのこと、社会学も言語学も工学も医学もありとあらゆる世界を結びつける非常に豊かな分野です。その先住民研究を北海道大学で学ぶことができる大きなアドバンテージを、皆さんにもぜひ体感してもらいたいです。

石原先生がこれまで出された著書の表紙の色が発行順に黒、白、マルチカラーと変遷しているのが面白いですね。

石原:あるとき人から指摘されて気がつきました。1冊目は「自分の色を塗りつぶされたくない」という意味で出版社にカラスのような(!)真っ黒一色の表紙を希望し、2冊目の『アイヌからみた北海道150年』はイラストを使ったこともあり、白ベースに。
編者も務めた3冊目『記号化される先住民/女性/子ども』は、アイヌのイメージを想起させつつ、人びとをどきっとさせるようなカラフルな色にしてほしい、とデザイナーさんに提案しました。
1冊目から、3冊目までの、私の関心の移り変わりを考えてみると、黒から白、そしてカラフルな展開は、本の表紙にそのまま表れているのだと思いました。
最後にもう一度ダイバーシティに話を戻すと、現在のダイバーシティブームのような時代に何が問題かというと、さまざまな沈黙を抱えたマイノリティをマイノリティという単色に塗りつぶしてしまうことが大きな問題だと思います。
それと並行してマジョリティが、マイノリティの「生きづらさ」を蚊帳の外に置いて無色透明のままでいられるという社会構造も見直したい問題点の一つです。

左から1冊目の著書『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー) サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』、2冊目『アイヌからみた北海道一五〇年』、3冊目『記号化される先住民/女性/子ども』と表紙の色にも関心の変化が表れている

左から1冊目の著書『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー) サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』、2冊目『アイヌからみた北海道一五〇年』、3冊目『記号化される先住民/女性/子ども』と表紙の色にも関心の変化が表れている

本来であれば、マイノリティ・マジョリティ、属性や当事者性を問わず誰もがカラフルな存在ですよね。
ひとりひとりがカラフルな存在であるという責任を自覚すれば、マジョリティもマイノリティを一色に塗りつぶしてしまうような状況に対して配慮ができるようになるし、いろいろな問題について対話が可能になる。そこに期待しています。
単色と無色透明から、みんながカラフルな社会になると嬉しいです。

はみ出すことを過剰に恐れずに自分のオリジナルな色を磨いていけば、やがてそれが自分だけのオリジナルの色になっていくはず。それはきっと人生にも、学びや研究にも言えることかもしれません。
私も自分の色を大切にしていきたいですし、皆さんが北大でカラフルな存在になる過程を応援していきたいです。

プロフィール写真

石原 真衣 准教授

所属:北海道大学 アイヌ・先住民研究センター 先住民・文化的多様性研究グローバルステーション(GSI)

文化人類学、オートエスノグラフィ論、先住民研究、先住民フェミニズム 先住民と入植者のリーダーの出自を持つマルチレイシャル。大学卒業後、英語教師として勤務したのちに、大学院入学。先住民や女性、日本の様々な当事者たちと、現代日本が抱える課題について多角的に検討する研究を行っている。